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東区紹介

東区出身の偉人地名をクリックすると、紹介が出てきます。

齐峰路
  1. 01チェボンロ, 高敬命(1533~1592)

    高敬命は、光州大村出身で、文科挙に主席合格して要職を経た後、僉知中樞府事として香里に隠居した。 文禄・慶長の役で全国が疲弊すると、約800人の義兵を挙げて全州の外郭にある錦山を奪還しようとしたが、息子の高因厚、從事官の柳彭老などと戦死した。 宣祖が霽峯の愛国心を称えて扁額を下賜した褒忠祠が光山區院山洞に位置しており、霽峰を祭っている。 市では、霽峰の名を称えるために南光州駅十字路から壯洞ロータリー、大仁広場を経て光州駅までの道路を霽峰路と呼んでいる。

  2. 02チュンジャンロ, 金德齡(1567~1596)

    金德齡将軍は光州忠壮洞で生まれ、祖父の兄弟である金允悌と成渾から学問を受けた。 文禄・慶長の役が起こると兄の金ドクンと高敬命義兵隊に参加したが、老母の面倒を見るために家に帰った。 母親を亡くし、兄の戦死を知らされた将軍は、父の姉妹の息子である宋齊民の勧誘と長城の縣令だった李貴、全羅道観察使の推薦を受け、各地に檄をを飛ばして義兵を起こした。 王から忠壮将という称号を授けられ、權慄将軍の指揮下で晉州、固城などで日本軍を攻撃した。 巨濟島に総攻撃を仕掛けたが日本軍が城を固く守ったため成果がなかった。 その後、李夢鶴の乱にかかわったとの濡れ衣を着せられて拷問を受け、29歳の若さで亡くなる。 死後、兵曹判書に贈職され忠壮公という諡号が与えられた。 無等山に建てられた忠壮寺で祭られており、市では将軍を末長く称えるために光州の中心道路である忠壮路の入り口から光州第一高等学校を経て敬悅路までの道路を忠壮路と呼んでいる。

  3. 03錦南路, 鄭忠信(1576~1646)

    鄭忠信は、光州の身分の低い家で生まれたが、ずば抜けた才気と明敏な行動の持ち主で、文禄・慶長の役の際に權慄将軍の下で手柄をを立てた。 その後中央政府に入り、李恒福の下で外交問題の解決に大いに貢献し、後に權慄の婿となる。 仁祖反正後の論功行賞に不満を抱いた李适が乱を起こしてソウルが陥れられると、鄭忠信は彼を追撃して殺し、ソウルを奪還する。 丁卯胡亂により王が江華島に避難すると、病中にも関わらず参戦して職務を全うした。 死後に錦南君と称され、光州の中心街はその名を称えて錦南路と呼ばれている。。

  4. 04ウィジェロ, 許百鍊(1892~1977)

    韓国の近·現代絵画史で伝統的な形式の南宗画風を伝承した画家である。 珍島出身で、朝鮮王朝末期に南宗画風を定着させた許鍊(1809∼1892)の傍系血族の子孫。 許鍊の息子である許瀯(1850∼1931)に基本的な筆方を習って上京、日本に渡って経験を積みながら伝統的な南宗画の画風と精神を引き継ぐことに尽力した。 1938年から光州に住み着き、書画伝承の進行と後継者養成を目的とした鍊真会を立ち上げる。 政府主催の展覧会で初代作家兼審査員を歴任し、農村リーダーの育成を目指して三愛学院を設立するほか、 民族の精神的支柱を確立すべく檀君神殿県立委員会を発足するなど、町づくりにおいても大きな手柄を残した。 許百鍊を称えるために無等山證心寺の下の渓谷周辺に位置した春雪軒(地方記念物第5号)は、彼の小さな宇宙であり、画室でもあった。

  5. 05チホロ , 吳之湖(1905∼1983)

    芸術院の終身会員で、政府展覧会の審査院長を務めた西洋画の元老。第2次日韓協約の締結直後だった1905年12月、和順郡同福面で吳在英の息子として生まれた。 愛国心の強い家柄で育ち、美術を趣味にしながら強烈な民族主義精神と愛国心の持ち主でもあった。 徽文高等学校に進学、コ·ヨンドンの指導下で本格的な美術の勉強を始める。高麗美術会館美術研究所で修学する。 1926年、東京美術学校西洋学科に入学、後期印象派の技法を勉強し、韓国の山河を韓国的な色彩を生かして表現することを目指した。 帰国後の1928年には新美術運動を標榜し、朝鮮総督府が主催する美術展に対抗するために「綠鄕会」を立ち上げ、朝鮮人による主体的な作品活動を呼び掛ける。 一時、民族主義者が集まっていた開城の松都高普で生徒に愛国心を鼓吹するとともに、作品活動を続ける。 1948年の政府樹立後には光州に戻り池山洞に住み着く。1949年から約10年間、朝鮮大学で学生を指導した。 4.19革命を機に学院の民主化に努め、5.16クーデター後に大学を辞め、在野の人として芸術活動と漢字教育の復活運動に専念した。 市は吳之湖の西洋画の発展への貢献を高く評価する意味で、絵画の発展に寄与した人に対して全国規模の「吳之湖美術賞」を3回にわたって授賞している。 そして吳之湖が光州に定着して1982年まで作品活動に専念した池山洞の草屋を記念物として保存·管理している。 なお、1992年に市立美術館に会館された「吳之湖記念館」では、代表作の「秋景」など8点の作品が一般の人に公開されている。

  6. 06ピルムンデロ ,李先齊(1390~?)

    ピルムン李先齊は、朝鮮の文人で号はピルムン、1390年光州南区泥場洞で生まれた。 幼い頃から聡明でヤンチョン權近(グォングン)の麾下で修学し、1141年司馬試に合格して官職に30年間勤めたという。 学文に造詣が深い太宗実録編纂と高麗史の改竄に4度も参加しており、各種慶讚疏文(ギョンチャン疏文)を作ったりした。 ピルムンの著述は非常に多かったが、己丑獄事で焼失して残って伝えることがなく、後代に作られたスアムジと王朝実録資料だけが残っているだけだ。 当時、光州がムジン君(茂珍郡)に降格されていることを光州牧に昇格させるのに活躍をし、今のヒギョンルを建てるのに大きな役割を果たした。 李先齊を称えるために1988年に西側4距離~山水5通り~南光州5距離区間が"ピルムンロ"に制定され以後、2009年"ピルムン大路"と告示された。