国家指定
錦溪日記
- 指定番号宝物第311号
- 指定日 1963年1月21日
- 時代1599年(朝鮮時代 宣祖32年)
- 所有者ノ・ジュンチェ
- 材料ジャージー
- 規模縦33.4cm 横23.5cm
- 管理機関ノ・ジュンチェ
基本情報

著者·魯認(1566~1623年)が記した日記で、丁酉再乱の際に南原城での戦で日本軍に捕まれ、日本で2年間捕虜生活を送っていたが、明国使節団の船で逃走し、北京を経て帰国した経緯を書いている。宣祖32年(1599)2月22日から6月27日までの約4ヵ月間の記録を残している。 当初は、南原城での戦で日本軍に捕まった時から帰郷の時までの記録だったが、内容の前後が失われ、一部しか残っていない。これは龍蛇赴義錄と周還錄から察することができ、200年後に魯認の7世孫により作られた金溪集にもこのことが記録されている。
この日記は、本の前後が失われ、字も損傷がひどく読みづらいため、概ねの状況しか把握できないが、内容は魯認が和泉堺(今の大阪)に軟禁されていた1599年2月から始まる。明国の使節団が来ていることを知った魯認は、その一行である陳屛山、李源證と脱出の計画を話し合い、脱出に成功した。その後福建省獐州に到着し、そこで使節団の案内を受けて1400里離れた福州軍門にたどり着き、大司馬、布政司、軍門坐営司、總兵坐営司, 監察御使などと出会って大きな歓迎を受ける。
そこの少壯学者ら交遊しながら彼らに朝鮮の文化を紹介し、詩歌を詠い合った魯認は、洪秀才の自宅に招待され八曲屛の詩文を書いたという内容である。 門にたどり着き、大司馬、布政司、軍門坐営司、總兵坐営司, 監察御使などと出会って大きな歓迎を受ける。そこの少壯学者ら交遊しながら彼らに朝鮮の文化を紹介し、詩歌を詠い合った魯認は、洪秀才の自宅に招待され八曲屛の詩文を書いたという内容である。 魯認の職業は公職、号は錦溪である。1566年、羅州荷衣里(現在の羅州市文平面北洞里)で父·魯師會と母·李の間で生まれた。14歳に栗谷門下の金光運(南塘)に修学し、17歳に進士試に合格して20歳に內需司別提として官界に進出した。だが、翌年に両親の面倒を見るために休暇取って帰郷する。27歳に文禄·慶長の役が起こると、直ちに鄕兵を集めて光州牧使の權慄將軍の指揮下に入り、梨峙と珍山で勝利を納め、幸州戦では大勝を遂げる。 1597年に丁酉再乱が起こると、都元師の權慄将軍に従い河東に滞在していたが、しばらく故郷の両親に会いに行ったところを日本軍の追撃を受け、兵器を前にしながらも両親を抱え込んで守ろうとする。それを見た日本軍の隊長が魯認の親思いに感心し、「勿害孝子」という標書を与えて他の日本軍が手を出せないようにする。 危機を逃した魯認は再び軍陣に戻って大邱の八公山を守っていたが、南原城が危ういという知らせを聞き、救援兵として出向いて戦ったが、矢に打たれて負傷を負い、捕虜になった。順天の防沓浦に護送された魯認は、安骨浦、大馬島を経て伊豫州に連れられる。そこで魯認の学問に感服した日本軍の隊長から格別の待遇を受けるが、脱出の試みが発覚されて和泉堺に移られたのだ。魯認が北京を経て帰国したのはその年の12月で、魯認は宣祖に対して日本の事情や復讐戦略を上申した。1603年、国は魯認の功労を認めて宣傳官を除授し、次いで所江節制を任命した。高宗20年(1883年)に資憲大夫兵曹判書兼知義禁府訓練院事を追贈した。
出典:東区役所ー文化遺産
位置
- 光州広域市東区鷄林洞178-25
- 055-742-5951
ツアー情報
利用時間 | 09 : 00 ~ 18 : 00 |
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休日 | 毎週月曜日、新年休日後の最初の平日の月曜日に伴う休日 「官庁の休日に関する規則第2条」 |
駐車場 | 有り |